「ティファニーで朝食を」原作と映画の違いについて

私が大学生の時に提出した「ティファニーで朝食を」の原作と映画との違いについてのレポートを見つけたので、なんとなくここにあげておきます(*´ω`)

この作品の映画と原作は、その終わり方が大きく異なっている。映画では原作と違ってホリーはブラジルへと発つことなく作家である「私」のもとから離れていくことはなかった。このような正反対の結末を生じさせた原作と映画における大きな設定の違いは、ホリーというよりもむしろ特に「私」(ポール・バージャック)のほうにあると感じた。映画の中でポールはアパートに越してきた段階において原作中の彼よりも作家として名をあげているというところに違いがある。原作中において彼は自分の作品が、例えノーギャラであっても活字にされたということに大喜びをしていたのに対し、映画の中でのポールは以前に注目の若手として、ある作品を出版し、図書館にも彼の作品は置かれているとことから、原作よりも作家としての地位はやや高いということが分かる。そういった作家としての地位の違いが、原作と映画における彼の性格の違い、つまりポールは自分に対する自信や積極性を持っていると感じた。それとは対照的に、やや内向的、消極的とも言うことのできる原作中の「私」の行動とを比較していきたい。

まずホリーとポールが初めて出会う場面であるが、原作とは逆にポールがホリーの部屋のベルを鳴らすことがきっかけとなっている。しかもこの出会いはポールがアパートに越してきた当日に行われており、二人が知り合いになるまでにしばらく間のあった原作とは異なっている。そして二人の関係が友人へと移る場面はホリーが非常口から部屋の中に入ってきてベッドの中で眠る場面であろうが、原作では夏から秋へと季節が変わるまでなかなか関係は進展しなかったのに対し、映画ではその出会った日に行われているようである。これはホリーにとってポールのほうが原作中の「私」よりも人間的な魅力を感じたためであろう。原作中の「私」は、ただホリーがベルを鳴らしてくれるのを待ち、遠くからホリーを観察したり、ホリーの部屋の屑籠を覗いたりして、やや陰気さが伺える。その場面が終わった後も、原作中の「私」は興味を感じているものの、未だに自分から積極的にホリーと接触しようとせず、逆に話しかけてもらえないことに対しいらつきを感じている。そしてようやく起こしたアクションは、ホリーの部屋のベルを鳴らすことではなく、ただメッセージカードを入れるだけであった。この経緯からも陰気でおたくっぽい印象を「私」には十分持つことができる。

そして明らかに気付く大きな違いは、映画ではフレッドだけではなく「私」に「ポール・バージャック」という、はっきりとした名前が与えられているところであろう。原作中では終始「フレッド」や「私」として表現されて、はっきりとした個性や人格が表現されていないように思える。その点映画の中の彼は自分をポールと主張し、はっきりとした人格や、自分に対する自信が伺える。映画の中で、それが顕著に表れたのはホリーが南米について調べていた図書館でのシーンであろう。そこで彼はホリーに対し、自分はフレッドではなくポール・バージャックだとはっきりとホリーに主張し、愛の告白をした。原作中の私は大人しくホリーにフレッドと呼ばれ続け、図書館でホリーを見かけたときでも、ホリーが席を立った時にこっそりと彼女が読んでいた本を覗いただけで、こそこそとしていた。そしてホリーに対する恋心も必死に押し隠し、事故で自分が極限状態にあり、いわば遺言のようなかたちでしか愛しているということができなかった。そういったポールの自信というものはデコレータと呼ばれるパトロンがいたことでも増幅されたのであろう。原作中ではそのような人物は登場していない。9時から5時まで続く仕事をする必要が「私」にはあったということからもそれは分かる。やはりそのようなパトロンの有無は作家として、いわば人間としての「私」とポールの器の大きさの違いをも表現していると感じた。

そしてそのような人間としての器の大きさの違いが表現されるのはラストシーンであろう。ホリーはホセが残した別れの手紙を読み聞かせられることにより今後の決断を迫られるわけであるが、映画の中では空港へ向かう車の中でホリーは手紙を聞かされ、もう後には引けない状態であるのに、ポールはホリーを引き留めることに成功している。原作では手紙を聞いてから出発までにはまだ間があり、説得する期間が映画よりも「私」にはあったはずなのに、結局ホリーを引き留めることをしなかった。映画の中でポールはずっと自分の気持ちに素直にホリーに愛を伝え続けてきたからであろう。原作中の「私」は例えばホセとホリーが結婚するという話を聞かされた時にも、ホリーに「ホセは君が既婚者であるということを知っているのかい?」という風に、明らかに無効な昔の結婚の話を持ちだして、結婚を考え直させようとしている。逆にポールはホリーに正直に君を愛しているからホセと結婚して欲しくないと伝えていた。そういう正反対の性格からも原作中の「私」は「フレッド」という枠を抜け出すことができなかった。そして結局ホリーからも「私」はフレッドとしてしか扱われず、ひとりの男として愛されることができなかった。原作中でホリーは自分の弟のフレッドのことをバカでうすのろと言っているが、まさに「私」もホリーにはそのような存在に見え、守ってやらなければいけない存在、すなわち自分よりも弱い存在に見えたのであろう。

そして最後にポールはホリーが放した猫を車から降りて探し、ホリーもそれに加わり、結局すぐに見付けることができる。いわばあの猫はホリーそのものを象徴しており、猫を見付け戻ってきたことはホリーが自分のもとに戻ってきたことを表現している。原作中の「私」はその場で猫を見付けに戻ることはせずに、後日探しに行っている。そしてその猫は他の家庭に飼われていた。そのような消極性、行動力の欠如からも「私」は人間的にポールよりも劣っており、ホリーが心動かされ好きになるのも「私」ではなくポールのほうだったのであろうと感じた。

我ながらとりわけ素晴らしくも無く下手でもない…いたって普通のレポートだと感じましたm(__)m

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